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遠野物語  10 (岩手県 遠野市)

 早池峰神社(妙泉寺)は、早池峰山、薬師岳登山口の近く、遠野市 上附馬牛大出(かみつきもうし おおいで)地区にあります。


 昔は、早池峰山を囲むように多数存在したようですが、現在は、ここと花巻市大迫の二ヶ所に残るのみだそうです。

 ちなみに、遠野の上附馬牛大出地区は、「にほんの里100選」 に選ばれています。





早池峰神社
早池峰神社


遠野の三大霊場の一つ、早池峰神社。後の二つは、続石(つづきいし)と五百羅漢であります。


  遠野の町からはかなり離れた奥深いところにあり、総門と二つの中門、本殿が残る、かなり大きな神社であります。

 妙泉寺とも呼ばれていました。


 なんと、この寺は慈覚大師が開創したのが始まりという。
 
 「早池峰の山頂に霊泉あり。常に清水たたえ霖雨(りんう)にもあふれず、旱魃(かんばつ)にも涸れない。。。。しかし汚い手や器で汲むとたちどころに涸れてしまう。経を唱えこれを乞えばまた速やかに湧き出す。。。。これは神霊のいたすところ。。。。これを聞いた慈覚大師はそれをほめて、ふもとの大出村に早池峰の霊泉の妙に感じ得たという意味で、一寺を建て妙泉寺と号した。」

(岩崎敏夫 著 『東北の山岳信仰』 より)





中門から望む早池峰神社 本殿
中門から望む 早池峰神社 本殿



鬱蒼とした杉林に囲まれた神社は、一種独特の雰囲気を醸し出していた。


 普通の神社とは明らかに違う。

 空気が重い!


 昔、遠野の人々は、この神社を参拝してから早池峰山に登拝しました。

 いやー、二泊三日くらいかかったでしょうか?

 かなり遠かったと思います。。。。


 昔の人は、タフでした。




 → 遠野時間 (遠野市観光協会) HP











投稿者: 霧島








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石と賢治のミュージアム (岩手県 一関市)

「石っこ賢さん」 をキーワードに、科学者 宮沢賢治が見ていた自然の不思議を分かりやすく見学できます。


 旧 東北砕石工場と同じ敷地内にあります。



 → 「旧 東北砕石工場 (岩手県 一関市)」(Anthony's CAFE 2012/05/15) を参照のこと。



 『「みんなのほんとうの幸せ」を求め、理想郷創造にまい進した技師時代の賢治と工場主 鈴木東蔵の心と生き方に触れ、これを次世代の子どもたちへと永く語り継いでいきたい。そんな思いから生まれたミュージアムです。』

(以上、石と賢治のミュージアム パンフレット より)






石と賢治のミュージアム 鉱物展示室
石と賢治のミュージアム 鉱物展示室


このミュージアムは、「太陽と風の家」 とも呼ばれています。


 ここには、羽根が太陽光パネルでできている小さな風力発電用の風車があるのです。


 もちろん、太陽光発電もできます。すごいですね! 


 宗教学者であり評論家でもある 山折哲雄さん (母親の実家が岩手の花巻市で、なんと賢治の実家の近くだそうです) は、こう言ってます。

 「賢治という人間は風と共に誕生し、光のような風の波に乗ってこの世を去っていった。賢治の詩も童話も、その本来のあり方においては風が吹いて話がはじまり、風か吹いて終息に向かう・・・・」

 と。 なるほど、言いえて妙です。


 風の又三郎は、賢治自身だったのかもしれませんね。(笑)



鉱物展示室では、すごく癒されました。(笑) 


 賢治の詩や童話には、水晶、雲母、蛋白石、紅宝玉、瑠璃、石英、安山岩、蛇紋岩等々、多くの鉱物や岩石の名前が登場します。。。

 
 賢治の詩集 『春と修羅』(第一集) が出版された時、「宮沢賢治は地質学、鉱物学、気象学、植物学で詩を書いた!」 と驚かれたのでした。 






「雨ニモマケズ」 への道
「雨ニモマケズ」 への道


JR大船渡線 陸中松川駅から東北砕石工場までには、一本の道があります。


 技師時代の賢治が歩いた道として 「デクノボーの道」、「雨ニモマケズへの道」 と呼ばれています。

 
 賢治のようなアバンギャルドでハイセンスな理想主義者、宇宙的ロマティストには、多くの挫折が待っています。

 理想には挫折が付きものです。

 しかし、賢治には、辛い絶望的な現実にさらされていない詩と童話の世界があったのです。

 
 賢治の書いた詩と童話は、次世代へのメッセージとも言えるでしょう。






「雨ニママケズ手帳」
「雨ニママケズ手帳」


有名な 「雨ニママケズ手帳」 。


 もちろん、レプリカであります。(笑)


 本物は花巻の宮沢賢治記念館の収蔵庫に厳重に保管されています。


 なんと、宮沢賢治記念館に展示されているのもレプリカなのです。(爆)


 賢治は、病気でボロボロの体なのに、大量の石灰肥料のサンプルを抱えて、無理をして東京まで営業に出かけ、そのまま倒れてしまったのです。

 なんという気力、精神力でしょうか。

 その後、花巻に戻り病床生活を送ったのでした。


 もっと工場のため、農民のために働きたかったのでしょう。

 もっと丈夫な体だったら!と何度も思ったことでしょう。


  そんなとき、ふと出てきてのがこの詩だったのかもしれません。

 賢治のつぶやきと言っても、いいですね。




 → 石と賢治のミュージアム (一関市 HP)










投稿者: 霧島






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旧 東北砕石工場 (岩手県 一関市)

岩手県南部の一関市東山町にあり、産業近代化遺産(国登録有形文化財)として登録されています。


 現在は整備され 「石と賢治のミュージアム」 の一部になっていて見学することができます。

 
 東北砕石工場は、石灰岩を粉砕して石灰肥料作るための工場でした。






旧 東北砕石工場 正面入り口
旧 東北砕石工場 正面入り口


 石灰肥料は、農地を改良し、耕作面積を広げ、収穫を増やし、冷害に襲われる東北の農民を救うために必要なものでした。

 
 晩年の宮沢賢治が技師として勤務し 東奔西走、活躍した工場としても知られています。







旧 東北砕石工場 敷地内
旧 東北砕石工場 敷地内


 昭和4年頃、工場主の鈴木東蔵は、土地改良のための肥料の研究をしているという賢治を知り、花巻まで訪ねて来たのでした。


 東蔵は、賢治にこう訴えましました。


 「東北砕石工場は、賢治さんが考えている土壌の改良には必要なもので、農民に安くて大切な肥料を大量に供給することができます。しかし、工場への注文は少なく、経営は苦しいのです。賢治さん、是非 技師として手伝って下さい」と。

 賢治は、どうしても工場を救ってやりたくなったのです。


 そして、二人は意気投合した。





宮沢賢治と東北砕石工場の人々
宮沢賢治と東北砕石工場の人々


賢治が工場を訪れたとき、工場主の鈴木東蔵や工場の人々と記念写真を撮りました。


 工場わきの 「群像のひろば」 には、そのときの写真をもとにした群像(ろう人形)がつくられています。


 後列右から4人目が賢治で、5人目が鈴木東蔵です。






再現されたトロッコ軌道とJR大船渡線
再現されたトロッコ軌道とJR大船渡線


東北砕石工場からは、大船渡線陸中松川駅まで、製品を運び出すトロッコ軌道があった。


 それと並行して、大船渡線の線路が走っている。


 このあたりは北上山地の南部にあたり石灰岩の大地が広がっています。猊鼻渓(げいびけい)や幽玄洞という鍾乳洞も近くにあります。

 石灰岩の大地に建つ工場!工場の立地としては最高ですね。

  








投稿者: 霧島






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『風の又三郎』 (岩手県 種山高原)

 「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう」 の書き出しで始まる、宮沢賢治の有名な童話であります。


 賢治の死後発表された作品で、『銀河鉄道の夜』 と同様に未完成だったようです。


 「永久の未完成これ完成である」 ですね。
   
 
 9月の初め、風が強くなる季節に転校してきた少年 高田三郎と山の分校の子どもたちとの交流を描いています。

 分校の子どもたちは、三郎のエキセントリックな言動や行動に戸惑いながらも、刺激的な遊びや事件を通して友情を深めて行くのであります。

 しかし、三郎は、わずか12日間居ただけで、分校の子どもたちに強烈な印象を残し、風のように去って行くのであります。。。。。


 物語の中の会話は、ほとんど方言だけで行われていますし、突然文章が飛んでるところはあるしで、少々難解な童話です。

 「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり。」 「なして泣いでら、うなかもたのが。」 「そだら早ぐ行ぐべすさ。おらまんつ水飲んでぐ。」 「又三郎うそこがなぃもな。」等々、東北の人が読んでもよく分からない部分が多いです。

 声に出して読んでみて、なんだ、こう言ってるのかー! と、やっと理解できる部分も多いです。






種山ヶ原にある 「風の又三郎」 の像

種山ヶ原にある 「風の又三郎」 の像


 後方に見えるのが物見山(871メートル)です。雨量観測所の白い建物が見えます。


 この魅力的な物語は、どこで繰り広げられたのでしょうか?

 物語には、種山ヶ原の 「た」 の字も出てきませんし、種山ヶ原あたりの地名も登場しません。

 
 しかし、種山ヶ原を暗示させるキーワードが多く出てきます。

 「上の野原」 「馬の牧場、放牧場」 「高原から流れ出る多くの渓川」 「物見山の山頂付近に展開する残丘のような大きな黒い岩」 などです。

 これらのことから 『風の又三郎」は、種山ヶ原を舞台にした物語だと言えます。


 もう一つ決定的なものがあります。

 それは、「モリブデン」 「モリブデン鉱山」という言葉が登場することです。

 地質学者でもあった賢治は、鉱物や岩石に関する豊富な知識がありました。

 高田三郎の父は、鉱山技師でモリブデンの鉱石が出るという 「上の野原」 の鉱山を開発するためにやって来たのです。

 こんな記述があります。先生と生徒の会話です。

 「上の野原の入り口にモリブデンという鉱石ができるので、それをだんだん掘るようにするためだそうです。」「どこらあだりだべな。」 「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから、少し川下へ寄ったほうなようです。」 「モリブデン何にするべな。」 「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのだそうです。」 

 ご存知のように、モリブデンと言えば 「モリブデン鋼」、高級包丁などに使われる最高級のステンレスです。

 「薬」 というのは、肥料のことのようです。

 しかも、稲作にはかかせない肥料になるとか。さすが、科学者 賢治!すごい知識です。

 実際、賢治は、盛岡高等農林学校時代の大正6年に、学友たちと一緒に種山ヶ原一帯の地質調査を行っているそうです。

 そして、なんと、モリブデンを含む鉱脈を発見したのです!!

 以後、賢治は何度も種山ヶ原を訪れています。 


 う~む、やっぱり、『風の又三郎』 の舞台は種山ヶ原ですね!(笑)





 * 種山ヶ原にういては、

 
 → 「種山ヶ原 (岩手県 種山高原)」(Anthony's CAFE 2012/01/20) の記事も参照のこと。









投稿者: 霧島










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種山ヶ原 (岩手県 種山高原)

 岩手県住田町、遠野市、奥州市にまたがる広大な高原、種山ヶ原の最高点、物見山(871メートル)に昨年の晩秋に登ってきました。


 登ったと言っても、遊歩道を往復2時間くらい歩き回っただけですが。。。。(笑)

 
 宮沢賢治の童話 『種山ヶ原』 『風の又三郎』 『銀河鉄道の夜』 の舞台としても知られ、賢治がこよなく愛した景観は、国の名勝 「イーハトーブの風景地」 に指定されている。


「種山ヶ原といふのは北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩や、硬い橄欖岩(かんらんがん)からできてゐます。高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五六軒づつの部落があります。」

(宮沢賢治 『種山ヶ原』 より)  





物見山 山頂

物見山 山頂


 山頂には雨量観測所の建物がありました。

 ここは、広大な種山ヶ原の中心であります。広大な準平原 種山ヶ原のすべてを見渡せます。

 遠くには、早池峰山、五葉山などが、何とか確認できました。


 

山頂付近の残丘とそこから見える風景

山頂付近の残丘 と そこから見える風


 このあたりでは、いたるところに 「残丘(モナドノックス)」 が見られます。


 遠く後方に見えるのが「種山高原 星座の森」で、ログハウスのコテージやオートキャンプ場などの施設があります。

  種山ヶ原は、内陸と三陸海岸との境界にある高原のため年中風が吹いている場所だという。

 この日も山頂付近は風が強かった。

 なるほど!まさに 『風の又三郎』 の舞台にぴったりです。


 なんとこの種山ヶ原周辺にも、あの坂上田村麻呂伝説があるのです。

 いやー、東北にはいたるところに田村麻呂伝説が残っていますね。(笑)

 エミシ軍を率いる人首丸(ひとかべまる)と田村麻呂率いる朝廷軍の最後にして最大の戦いがあった場所だったとか。

 当然のことながらエミシ軍は惨敗し、人首丸は処刑されました。墓は、奥州市側になりますが、人首町(ひとかべまち)というところにあるそうです。

 
 賢治も 『人首町』 という詩を残しています。


 「雪や雑木にあさひがふり 丘のはざまのいっぽん町は あさましいまで光ってゐる そのうしろにはのっそり白い五輪峠 五輪峠のいたゞきで 鉛の雲が湧きまた翔け 南につゞく種山ヶ原のなだらは 渦巻くひかりの霧でいっぱい つめたい風の合間から ひばりの声も聞えてくるし やどり木のまりには艸いろのもあって その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある 」

(宮沢賢治 『人首町』 より) 




物見山 山頂 を望む

物見山 山頂 を望む


 種山ヶ原は、森林も少なく昔から天然の放牧場として利用されてきました。


 伊達藩(このあたりは南部藩と伊達藩の堺)の馬牧場とて利用されたのが最初でした。戦時中は大量の軍馬の放牧場として貴重な存在だったそうです。


 「春になると、北上の河谷(かこく)のあちこちから、沢山の馬が連れて来られて、此この部落の人たちに預けられます。そして、上の野原に放されます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻ってしまふのです。なぜなら、九月には、もう原の草が枯れはじめ水霜が下りるのです。放牧される四月(よつき)の間も、半分ぐらゐまでは原は霧や雲に鎖とざされます。実にこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や湿気しっきのお定まりのぶっつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起って来るのでした。それですから、北上川の岸からこの高原の方へ行ゆく旅人は、高原に近づくに従って、だんだんあちこちに雷神の碑を見るやうになります。その旅人と云いっても、馬を扱ふ人の外(ほか)は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅(わずか)なものでした。

(宮沢賢治 『種山ヶ原』 より)



 2006年、スタジオジブリで 『種山ヶ原の夜』 のタイトルでアニメ化されています。

 
 → ジブリがいっぱいCOLLECTIONスペシャル『種山ヶ原の夜』 HP  一部 動画も視聴できます。









投稿者: 霧島










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愚直な雪 (岩手県 花巻市 - 青森県 十和田市)

乙女の像(十和田湖)
十和田湖畔にある 『乙女の像』 (高村光太郎 作・ブロンズ)



生前の宮沢賢治を高く評価し、尊敬し、世間に知らしめたのが、詩人・彫刻家の高村光太郎である。


 高村光太郎 は、賢治との交友が縁で、昭和20年に岩手の花巻(賢治の実弟 宮沢清六宅 - 賢治の実家)に疎開したが空襲で被災し、終戦後、そのまま花巻の街から10数キロ離れた 「山小屋」(高村山荘)に住むことになったのである。

 真冬には、氷点下20度にもなり、吹雪く日には小屋の隙間から雪が入り込み、寝ている布団の上に雪が積もることもかなりあったとのこと。

 東京生まれの光太郎は、福島生まれの智恵子が憧れていた、「ほんとの空」 と 「深い自然」 を東北・岩手に求めたのかもしれない。



 「冬の季節ほど、私に底知れぬ力と、光に包んだ美しさを感じさせるものはない。。。私は、いつも、最も突き進んだ芸術の究極がこの冬の美にあることを心ひそかに感じている。。。。」 

(高村光太郎 『満目蕭條の美』 より)




 光太郎ほど冬を愛した詩人はいないだろうなー。

 私の布団の上にも雪が積もるほど吹雪いて欲しいなー。。。(笑)








投稿者: 霧島









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賢治 自耕の地 (岩手県 花巻市)

宮沢賢治の家の黒板に書かれた 「下ノ畑ニ居リマス 賢治」 の 「下ノ畑」 がこの場所です。


 羅須地人協会 跡地 から500~600メートル離れた地点にあります。


 北上川の河畔、直ぐ前を北上川が流れています。

 当時、このあたり一帯は、砂地でヤブ地の荒地でした。なんと、賢治は、この荒地をたった一人で2400平方メートルも開墾したのです。

 荒地の開墾という重労働、農耕自炊の生活、農閑期には羅須地人会の活動や農業相談、肥料設計等、超多忙な日々を送ったのでした。


 当時、岩手の農民の貧困は想像以上のものでした。

 米を作る農民が米を食べないで野菜と雑穀だけを食べていたのです。

 農村には、「振り米」 という臨終の慣習があって、貧しい農民が死を迎えるときに、竹筒に入れた米を振って 「米だぞ、ほら米だぞ、いま炊ぐがらな、腹一杯食えよ!」 と言って、耳元で鳴らすのです。

 なんとも悲惨な死です。。。なんというか、言葉がでないですね。(涙)


 また、十代の娘を東京の遊郭に身売りする農家は当たり前のようにありました。

 
 賢治の理想や情熱だけではどうしようもない現実が広がっていたのです。

 こんな現実に立ち向かって行った賢治の執念・情熱には、すごいもの感じます。





下ノ畑

下ノ畑


 前方に北上川が見えます。


 賢治はここで、一般的な野菜のほかに、当時としては珍しかった、トマトやアスパラガス、チューリップ等の花も多く栽培していた。

 収穫した野菜や花は、当時は高級品だった最新のリヤカーに積んで、自ら売り歩いたという。

 当然売れるはずはなかった。余しても仕方がないからと、ただで配って歩いたのでした。


 街の人たちは、冷ややかな目で賢治を見ていたのである。

 「金持ちお坊ちゃんの道楽だべ!」 と。。。





下ノ畑を守る会

下ノ畑を守る会


 今でも賢治の意志をついで 「下ノ畑」 で野菜や花を栽培している。


 開墾という重労働と羅須地人会の活動、野菜や雑穀中心の自給自足の生活、これらは賢治の体力を著しく奪っていったのである。

 空想的社会主義者、理想主義者ともよばれる賢治。

 理想と現実の狭間で精神的にも追い込まれて行ったのでしょう。


 ついに病に倒れ、わずか3年あまりで、この活動は挫折したのでした。








投稿者: 霧島






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羅須地人協会 跡地・賢治詩碑 (岩手県 花巻市)

賢治ファンにとっての本当の聖地はここだと思う。けっこう広い場所だ。


 高村光太郎の筆による 『雨ニモマケズ』 の詩碑がたっていた。

 
 詩碑の下には、賢治の遺骨と法華経の経文、宮澤賢治全集、詩碑建立の由来を記した文書が納められているという。

 まあ、「賢治のお墓」 と言ってもいい。


 ちなみに、賢治のお墓は、「ぎんどろ公園」(旧花巻農学校跡地) 近くの身照寺 (宮沢家の菩提寺) にあります。





『雨ニモマケズ』 の詩碑

『雨ニモマケズ』 の詩碑


 「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ  小サナ萱ブキ小屋ニイテ 東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ 西ニ疲レタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウモノニ ワタシハナリタイ  宮澤賢治」


 碑文は、詩の後半部分が書いてあった。





羅須地人協会 跡地の説明板

羅須地人協会 跡地の説明板


 この場所は、花巻市街地の南の方で花巻南ICからもけっこう近い。


 毎年、賢治の命日には、ここで 「賢治祭」 が行われる。

 詩の朗読や、賢治が作詞作曲した 『星めぐりの歌』 等の合唱などが行われる。





羅須地人協会 跡地のある台地から北上川方面を望む

羅須地人協会 跡地のある台地から、北上川方面を望む


 ここは、舌状の台地になっていている。



 前方の林の向こう側には、北上川が流れている。

「下ノ畑」 は、このあたりか?

  左のほうに少し畑はあるが、田んぼと道路にすっかり変わっていた。。。








投稿者: 霧島






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羅須地人協会・賢治の家 (岩手県 花巻市)

「羅須地人協会・賢治の家」 現在は、県立花巻農業高校の敷地内に移築されている。


 花巻農学校を依願退職した賢治は、羅須地人協会 (らすちじんきょうかい) を設立して、ここで若い農民たちを集め、自ら書いた散文詩的な論文 『農民芸術概論綱要』 の実践を試みるのである。

 でも、「金持ちお坊ちゃんの道楽だべ!すぐにダメになるべ!」 と、陰口を言う輩も多かったとか。。。





羅須地人協会・賢治の家

羅須地人協会・賢治の家


 学校の管理人さんから鍵を借りれば、内部を見学できるとのこと。


 しかし、残念なことに、ちょうど休み中で内部は見学できませんでした。

 でも、窓ガラスが多いので、しっかりと内部を見ることができましたね。


 ここで、 昭和の初期の農村で、「音楽会」 「レコード鑑賞」 「エスペラント語の講義」 等を行ったなんて!

 あまりにも、アバンギャルドでハイセンスすぎるなー。。。。(笑)





賢治の家の伝言板

賢治の家の伝言板


 おそらく、日本で一番有名な 「伝言板・掲示板」 でしよう!


 玄関脇にあります。けっこう大きい。

 農耕自給生活を始めて多忙になった賢治が留守のとき、行く先をこの伝言板に書き込んだという。





有名なポーズの賢治の像

有名なポーズの賢治の像


 この像の元となった、あの有名な賢治の写真は、ベートーベンの服装とポーズを真似したものだそうです。


 自ら写真屋を呼んで撮らせたとのこと。

 ベートーベンが大好きだった賢治は、有り金をはたいてレコードを買い集めたとか。

 なんと、ハイカラでハイセンスなことか。。。(笑) 





花巻農業高校にあるプレート

花巻農業高校にあるプレート


 賢治の論文 『農民芸術概論綱要』 のラスト、「結論」 の部分からの抜粋。


 「…… われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である ……われらの前途は輝きながら嶮峻である  嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる  詩人は苦痛をも享楽する  永久の未完成これ完成である  理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる  畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである」


 銀河を包む透明な意志 か!?  詩人は苦痛をも享楽する か!? 永久の未完成これ完成である か!?

 う~む、奥の深い言葉だ。

 透明な爽快なら実感できるが。。。(爆) 








投稿者: 霧島
 





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い~はと~ぶアベニュー材木町 (岩手県 盛岡市)

 岩手県盛岡市駅前の開運橋を渡り北上川沿を遡るように向かと、江戸時代から明治にかけて水運業で栄えた町 「材木町」 があります。


 ちょうど、旭橋と夕顔瀬橋に挟まれた通りである。





やさしい面持ちの宮沢賢治の像

やさしい面持ちの宮沢賢治の像


 い~はと~ぶアベニュー(材木町通り)は、宮沢賢治の通りでもある。


 宮沢賢治 とその作品にちなんだ6つのがモニュメントが設置されており、これもそのうちの1つ。





光原社

光原社


 『注文の多い料理店』 の出版元として知られる。

 
 命名したのは宮沢賢治で、盛岡高等農林学校の賢治の後輩であった及川氏が創業者である。

 農薬等の製造販売で財を成した及川氏は、賢治の膨大な未発表原稿を見て、売れる見込みなどほとんど無い童話の出版に、自ら資金を提供して踏み切ったのであった。





可否館

可否館


 光原社は、漆器等の工芸品を扱う店と喫茶店 「可否館」 を営んでいる。


 「可否館」 向い側には、宮沢賢治関連の展示室があります。。


 確たる販路もなく、やっつけで出版された賢治の童話集 『注文の多い料理店』 は、当然のことながら 「極端に注文の少ない料理店」 になったのでした。。。。(爆)








投稿者: 霧島






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『春と修羅』

菜食主義者で法華経の信者であった宮沢賢治は、自身の分身である「詩」を「心象スケッチ」と称した。


 賢治は、多くの詩や童話書いたが、決して 「小説」 を書かなかった。


 なぜか?? ある人によれば、小説を書けなくて、詩や童話を書いたのではないとのこと。

 賢治にとって、山も川も動物も植物も石も鉱物も、人間と同じように永遠の生命を持っているものだったと。。。

 それらの生命の真理を語るのに、人間世界のみ語る 「小説」 を必要としなかったらしい。。。

 なるほど!!人間の世界・宿命を超越した、自然世界!!


 それは、やっぱり、詩と童話の世界なのか。。。。。!!??





焼走り溶岩流大地より望む岩手山

焼走り溶岩流大地より望む岩手山


 「そらの散乱反射のなかに 古ぼけて黒くゑぐるもの ひしめく微塵の深みの底に  きたなくしろく澱むもの」

(春と修羅「岩手山」」より)


 現在、宮沢賢治の作品の源泉となった岩手県内6カ所の自然景観が 「イーハトーヴの風景地」 として、景観の重要文化財にあたる国指定名勝に指定されている。





旧盛岡高等農林学校本館前にある宮沢賢治のモニュメント

旧 盛岡高等農林学校本館前にある宮沢賢治のモニュメント


 宮沢賢治の詩集 『春と修羅』 は、とんでもなく難解である。


 いまだによく解らないです!

 『春と修羅』 第一集の 「序」 を読んだだけで、頭がクラクラしてきます!(爆)


 やっぱり、賢治は、アバンギャルドな天才です。








投稿者: 霧島






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啄木・賢治青春館 (岩手県 盛岡市)

 「孤光灯(アークライト)にめくるめき、川と銀行と木のみどり、羽虫群れのあつまりつ、街は静かにたそがるる。」

( 宮沢賢治 『岩手公園』 より)

 
 盛岡の清流中津川をはさんで岩手公園の向かい側にある紺屋町界隈は、明治から大正時代にかけては一大金融街であった。

 盛岡で青春時代を過ごした 宮沢賢治 にとって、ここ金融街は、なぜか お気に入りの場所だったようです。





旧 第九十銀行本店

旧 第九十銀行本


 ロマネスク風の重厚な建物で、国の重要文化財である。


 今は、「もりおか啄木・賢治青春館」 として、啄木 と賢治が盛岡で過ごした多感な青春時代を紹介している。ファン必見の場所です! 


 館内の喫茶店 「あ古がれ」 のコーヒーは、最高に旨かったなー。。。。(笑)



 *『あこがれ』 は、啄木の処女詩集のタイトル





旧 岩手銀行旧本店本館

旧 盛岡銀行旧本店本館


 賢治も大いに気に入っていた、赤煉瓦のルネッサンス様式の建築。

 
 この建物も国の重要文化財に指定され、現在は岩手銀行中ノ橋支店として営業している。

 設計者は、赤煉瓦の東京駅等を設計した明治の建築界の巨人 辰野金吾 なので、東京駅にけっこう似ている。(笑)

 
 「建築は、凍った芸術だ!」 と言ったのは、誰だったか?

 明治期の建築家は、優れた芸術家でもあった。




 → 啄木・賢治青春館 HP








投稿者: 霧島









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旧 盛岡高等農林学校本館 (岩手県 盛岡市)

イーハトーヴのモリーオ市に行ってきました。(笑)


 旧盛岡高等農林学校(現岩手大農学部・重要文化財)本館を見学してきました。

 今は、綺麗に修復されて、教育資料館になっています。


 宮沢賢治 関連の資料も豊富。

 当時、高等農林学校は、帝国大農学科に次ぐエリート校でした。

 盛岡中学(現盛岡一高)を卒業した賢治は、盛岡高等農林学校に主席で入学している。





旧盛岡高等農林学校本館

旧盛岡高等農林学校本館


 青森ヒバ造りの明治後期を代表する欧風建築物である。


 宮沢賢治は、ここで、本科生・研究生として6年間在籍し、農学のほかに物理・化学・地質・鉱物・気象等を学んだ。

 その豊富な科学的知識は、賢治の傑作童話 『グスコーブドリの伝記』 に生かされている。





旧盛岡高等農林学校 正門

旧盛岡高等農林学校 正門


 ここも、門番所とともに重要文化財に指定されている。

 
 『グスコーブドリの伝記』 に登場する、短気ですぐ怒鳴るエキセントリックで愛すべき恩師クーボー大博士は、盛岡高等農林学校での恩師の関豊太郎先生がモデルになっているそうです。









投稿者: 霧島









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「フェルメールからのラブレター展」 宮城県美術館 (仙台市 青葉区)

フェルメールは、もう二度と日本では見られないだろうと思い、行ってきました。


 けっこう混雑していました。美術館前の広い駐車場は満車状態で、少し離れたところにある第二駐車場に行ってくれとの指示でした。

 岩手、山形、福島など他県ナンバーの車も多くありました。土日祝祭日には、周辺道路は大渋滞になるかもです。やれやれ。





宮城県美術館

今年で開館30年を迎える 宮城県美術館


 「フェルメール展」 初日には、なんと50人が列をつくりました。


 連日、多くのファンでにぎわっています。

 なんと、公開は、京都、仙台、東京のみなのです。

 ふつうなら、京都、名古屋、東京とかなりまいよね。ありえないことです。(笑)

 
 東日本大震災の影響からですかね? まあ、とにかく仙台で見られて良かったです。





『手紙を読む青衣の女』 (フェルメール展のポスター)

『手紙を読む青衣の女』 (フェルメールからのラブレター展のポスター)


 修復後の公開は、これが初めてだ。

 当時は超高価な鉱物だった ラピラズリ から作られた顔料( ウルトラマリン)で、描かれているという。


 感動ものだった。やはり本物は素晴らしい。

 誰もが目を奪われるブルー、1度見たら忘れられないブルー! 「フェルメールブルー」 がよみがえった!  


 「フェルメールブルー」 の元になったラピラズリの鉱石と、それからとれた顔料(ウルトラマリン)も展示されていました。

 この 「青」は 多くのフェルメールの作品でみ見られるという。

 当時は超高価だったラピラズリをふんだんに使ったということは、フェルメールはかなりの金持ちだったのかもしれませんね?(笑) 
 

 フェルメールの作品は、完成度が高い傑作とされる 『手紙を読む青衣の女』 『手紙を書く女』 『手紙を書く女と召使』 の3点が出品されている。

 もちろん、東北では初めての公開である。


 フェルメール は、多くの謎に包まれた画家だという。

 誰に学んで修業したのかも分からず、修業時代のデッサンも作品もなく、作品も文献も極端に少ないのです。

 それゆえ贋作事件や盗難事件が後を絶たなかったとか。

 突然、完成された作品30点を残して消えていったのです。


 なんか、日本の謎の絵師 写楽 みたいですね。(笑)



 → 「フェルメールからのラブレター展」公式HP




ラピスラズリ(和名 瑠璃{るり}) というと、宮沢賢治の詩にも登場します。


 『銀河鉄道の夜』 につながっていく幻想的な詩です。


さめざめとひかりゆすれる樹の列を
ただしくうつすことをあやしみ
やがてはそれがおのづから研かれた
天のる璃の地面と知つてこゝろわななき
紐になつてながれるそらの楽音
また瓔珞やあやしいうすものをつけ
移らずしかもしづかにゆききする

(『青森挽歌』 春と修羅 - 心象スケッチ-第一集 より)


 賢治は妹トシの魂を求めて真っ暗な銀河の中を走っている。

 そんな愛する妹と、賢治はいまだって交信することができる。

 トシがどんな世界へと旅立っていったのか、それがトシ女自身から知ることができる。

 トシは天の瑠璃の地面に立っている。








投稿者: 霧島









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藤村広場   2 (仙台市 宮城野区)

 東京の明治女学校高等科で英語科教師をしていた藤村、島崎春樹。東北学院の招きもあり仙台へ赴き、同校で教鞭をとったのは明治29年。

 
 教え子との恋に破れ(その数年後に病没、永遠の別離となった)親友である 北村透谷 の自殺などにより、東京に住むのが嫌になったのでした。

 また、長兄が公文書偽造行使の罪での服役や母の病死もあった。




 

塩釜神社の 「三浦屋跡地」 の案内板

塩釜神社の 「三浦屋跡地」 の案内板


 藤村の下宿先、三浦屋があった場所は、今はなぜか神社になっていました。


 この下宿で 『若菜集』 の詩が書かれたのです。

 「仙台の名影町(名掛丁)というところに三浦屋という古い旅人宿と下宿を兼ねた宿がありました。その裏二階の静かなところが一年間私の隠れ家でした。『若菜集』にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。宿屋の隣りに石屋がありまして、私がその石屋と競争で朝も早く起きて机に向ったことを憶えています。あの裏二階へは、遠く荒浜の方から海の鳴る音がよく聞えて来ました。『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです。」

(『市井にありて』 よりて)


 当時、この下宿の東側一帯には、ほとんど建物とかがなかったのでしょう。もちろん騒音もなかった。

 若林区荒浜あたりの潮騒が聞こえていたのでしょうね。今では想像がつかないですね。(笑)





初恋通り

初恋通り


 JR仙台駅東口の駅前広場から藤村広場方面に進む歩行者専用の小路が、「初恋通り」 と名付けられいる。   

 「仙台の東北学院の教師として出かけることになって、旅も出来れば母への仕送りもいくらか出来るという始末であったのです。あの時は寂しい思いで東北の空へ向いました。着物なぞも母の丹精で見苦しくない程度に洗い張したもので間に合せ、教師としての袴は古着屋から買って来たもので間に合せました。荷物といっても柳行李一つで、それも自分があつめた本を大事にいれて行くぐらいなものでした。上野から汽車で出かけて、雨の深い白河あたりを車窓から見て行ったときの自分の気持は、未だに胸に浮んで来ます。そんなに寂しい旅でしたけれども、あの仙台へついてからというものは、自分の一生の夜明けがそこではじまって来たような心持を味いました。実際、仙台での一年は、楽しい時であったと思います。」

(『市井にありて』 より)


 仙台へは、ブルーで、へこんで、滅入って、都落ちという感じでやって来たのでしょう。(笑)

 でも、仙台での生活は、希望に満ちて、充実して、楽しい日々だったようです。





明治期の東北学院(大学)

明治期の東北学院(大学)


 東北学院大学は、プロテスタント系のミッションスクールで、東北地方では最大規模。最も有名な私立大学である。東

 北各地や北関東からも学生を集めている。

 
 明治初期に私塾 「仙台神学校」 として開校し、数年後に東北学院と改称した。

 島崎藤村が赴任してきたのは、この写真の頃でしょう。


 大学の出身者で有名人は、プロ野球の岸投手(西武)、鈴木京香、さとう宗さん、大友康平などか。。。








投稿者: 霧島









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藤村広場   1 (仙台市 宮城野区)

 魯迅と同じように、島崎藤村が仙台で生活したのはわずか1年あまりでしたが、その間に作った詩は 『若菜集』 としてまとめられて出版され大反響をよびました。


 日本近代詩の記念碑的作品ともいわれています。


 これを記念して、島崎藤村 が下宿していたところに 「藤村広場」 が作られました。  




「日本近代詩発祥の地」 の碑

「日本近代詩発祥の地」 の碑


 碑には、こう刻まれています。


 名掛丁藤村下宿 「三浦屋」 跡 ここ三浦屋にありて 若き島崎藤村 日本近代詩の夜明けをつげる 『若菜集』を生む


 
 ここは、JR仙台駅の東口の北側にあたります。


 20年くらい前までは、通称駅裏と呼ばれていて古い木造の民家や商店が乱雑に密集し、かなりごちゃごちゃ場所でした。

 しかし、今ではきれいに再開発されマンションやショップ、飲食店が立ち並んでいます。





藤村広場には、巨大な蝶々の絵が描かれている
 
藤村広場には、巨大な蝶々の絵が描かれている。


 『若菜集』 の表紙を飾った蝶々です。

 
 まるでナスカの地上絵です。なんでこんな絵をわざわざ描いたのだろう?

 広場にいる人間には、何が描かれているのか なんてのは全く分からないのです。

 上空から見て初めて分かるのです。


 これは絶対に見なくては!と思い、近くのマンションの立ち入り禁止の非常階段を勝手に乗り越えて、5階まで登って撮影しました。やれやれ。(爆)





『若菜集』 の表紙

『若菜集』 の表紙


 初版本の復刻。


 だれがデザインしたのでしょうか?白い蝶々が象徴的です。





「島崎藤村 青春の地・名掛丁」 の碑

「島崎藤村 青春の地・名掛丁」 の碑


 この碑は歌碑にもなっています。


  向かって左右の面には、超有名な詩 『初恋』 の一節が刻まれていました。



まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたえしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり


(『若菜集、初恋』 より)





*仙台滞在時の 魯迅 については、下記を参照のこと。


 → 「魯迅と仙台  東北大学 片平キャンパス  1」(Anthony's CAFE 2009/07/08)

 → 「魯迅と仙台  東北大学 片平キャンパス  2」(Anthony's CAFE 2009/07/14 )








投稿者: 霧島









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『なめとこ山の熊』

宮沢賢治が、山人 「マタギ」 を主人公にした作品として有名である。


 賢治の数ある童話のなかで 『なめとこ山の熊』 は、『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』『風の又三郎』『セロ弾きのゴーシュ』 などとともに、かなり読まれている作品である。

 
 また、賢治賢治は、スポーツとしてハンティングを行う猟師たちを嫌悪していた。賢治がここで描いたのは、『注文の多い料理店』 に登場するような都会からやってきて、快楽を得るためにレジャーやスポーツ感覚でハンティングを行う猟師ではないのです。

 『なめとこ山の熊』 の主人公 マタギの淵沢小十郎は、自分や家族が生きるためにハンティングを行う猟師なのです。

 しかしながら小十郎は、猟師という自分の仕事を悪い行い、罪深い行いと常に思っていたのである。

 小十郎は熊を殺した後、念仏のようにこうつぶやくのである。

 
 「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめへも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめへも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」 と。

 
 因果応報、「善行が幸福をもたらし、悪行が不幸をもたらす」という考え方、思想である。

 小十郎は「罪深い行為をしている自分は良い死に方はしないだろう」と常々思っていたのであろう。。。。

 
 なんと、物語の最後に小十郎は熊に殺されてしまうのである





マタギ資料館(北秋田市 阿仁)の館内展示マタギ資料館(北秋田市 阿仁)の館内展示



この 『なめとこ山の熊』 を読むと感じることですが、明らかに賢治は、マタギと接触していたと思われます。


 賢治は、地質調査や鉱物・岩石・化石採集のため北上山地や奥羽山系、三陸海岸などを野宿しながら歩きまわりましたが、そのとき、花巻市西部の旧沢内村あたりでマタギと接触し、その生活やハンティングの様子を見ていたのでしょう。

 なんと、賢治は、マタギが獲った熊を解体するシーンも見ていたのである!(笑) 


 「。。。それから小十郎はふところからとぎすまされた小刀を出して熊の顎あごのとこから胸から腹へかけて皮をすうっと裂いていくのだった。それからあとの景色は僕は大きらいだ。けれどもとにかくおしまい小十郎がまっ赤な熊の胆いをせなかの木のひつに入れて血で毛がぼとぼと房になった毛皮を谷であらってくるくるまるめせなかにしょって自分もぐんなりした風で谷を下って行くことだけはたしかなのだ。」

(『なめとこ山の熊』 より)




岩手県花巻市の西部、秋田県と接する旧沢内村(現西和賀町)には、マタギの集落が点在していたのです。


 旧沢内村にある。碧祥寺(へきしょうじ)博物館には、マタギ関連の資料が多く展示されています。

 
 哲学者であり、歴史家でもある 梅原猛 氏は、「この童話のラストシーンは、実に透明で清潔で神聖な文章で書かれている。。。。このシーンは、熊が自ら殺した小十郎の霊を神に送る儀式、イヨマンテ である」と言っている。

 
 なるほど!熊による逆イヨマンテか!(笑) まさに言い得て妙である。



 「。。。。雪は青白く明るく水は燐光りんこうをあげた。すばるや参しんの星(オリオン座の三ツ星)が緑や橙だいだいにちらちらして呼吸をするように見えた。 その栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環わになって集って各々黒い影を置き回々フイフイ教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸しがいが半分座ったようになって置かれていた。 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きてるときのように冴さえ冴ざえして何か笑っているようにさえ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。」

(『なめとこ山の熊』 より)



 これは、賢治の思想が凝縮している童話だと思う。





 → 『なめとこ山の熊』全文(青空文庫) - 著作権が消滅しているので、Web上で無料で読めます -

 → 打当温泉 マタギの湯/マタギ資料館 HP

 → 碧祥寺 博物館 HP








投稿者: 霧島


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伊達六十二万石の宿 湯元 不忘閣  2 (宮城県 川崎町 青根温泉)

「文人達の宿」 一泊 ○万○千円と少々高かったですが、全てにおいて満足でした。


 充分高いだけのことはありました。


 夕食、朝食は、多くの文人達が泊まった旧館の個室でいただきました。なんか、明治時代にタイムスリップしたような感覚になります。

 料理も最高でした。とくに、仙台牛を使った松茸の牛鍋は絶品でした。うまかった!!

 
 もちろん、お風呂も最高。感動ものでした。





政宗の湯(大湯) 入口

政宗の湯(大湯) 入口


 この引き戸から専用の草履に履き替え、階段を少し下りて行くと温泉である。

 この温泉では、伊達家の家紋(三引両紋、竹に雀紋)が、お椀や柱などに使われています。

 聞いてみたところ、なんと、伊達家の家紋の使用が許されているのは、この温泉と松島の瑞巌寺だけとのこと。

 勝手に使用することができないのですね。 登録商標かなんかになっているのでしょうか?やれやれ、すごいことです。





大湯 内部

大湯 内部


 450年前の姿に復元された大湯。伊達政宗も入った温泉である。


 建物は何度か再建されいるが、450年以上使われている重厚な石組みで作られた湯船は、まったく当時と同じままである。

 大湯は、老朽化が激しくなり2006年で閉鎖されましたが、当主が 「青根温泉発祥のルーツを絶やすわけにはいかない」 と決意し、青森ヒバと土壁を使い、釘を一切使わない工法で復元したのです。

 当然のことですが、脱衣所もシャワーもありません。脱いだ浴衣を置いておくカゴが並んでいるだけです。

 でも、ご安心下さい。脱衣所、シャワー、石鹸、シャンプー完備の普通の温泉もあります。(笑)


 与謝野晶子も、この 「大湯」 に入ったのでしょう。

 ここ不忘閣で、こんな歌を詠んでいます。。。


「石風呂の 石も泉も 青き夜に 人とあゆみぬ 初秋の月」






蔵湯 に通じる石畳の通路

蔵湯 に通じる石畳の通路


 なんとも幻想的である。風情がある。


 引き戸をあけ廊下を進むと右手に土蔵の蔵が並んでいた。

 草履に履き替え、石畳の通路を進むと風呂の入り口がありました。


 入り口の前には 「日本秘湯を守る会」 の大きなちょうちんが、ぶら下がっておりました。





蔵湯 内部

蔵湯 内部


 なんと、蔵の中にヒノキの湯船が。。。


 江戸末期に建てられたという蔵を改装して作られた風呂である。

 天井が高い。ヒノキの香りが心地よい。殿様気分が味わえる風呂である。


 この蔵湯は貸切になっていて、ロビーに置いてある 「貸切」 の札を廊下に掲げておけば、30分限定で誰に気兼ねすることもなく、のんびりと入ることができる。

 まさに、殿様気分が味わえる風呂である。(笑)




 → 青根温泉 湯元 不忘閣 HP

 → 日本秘湯を守る会 HP








投稿者: 霧島






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伊達六十二万石の宿 湯元 不忘閣  1 (宮城県 川崎町 青根温泉)

 蔵王連峰の山懐にわく青根温泉。伊達家の御殿湯として栄え、伊達政宗公をはじめとして歴代の藩主が湯治に訪れたという由緒ある温泉に一泊してきました。


 明治に入り、多くの文人達に愛された温泉でもあります。芥川龍之介、与謝野鉄幹・晶子夫婦、川端康成、高浜虚子、山本周五郎など多くの文人たちが滞在しています。 


 「日本秘湯を守る会」 会員の温泉でもあります。





湯元 不忘閣  門前

湯元 不忘閣 門前


「夕立の虹見下ろして欄に倚る」


 左側にある句碑は、高浜虚子がここを訪れた際に詠んだもの。



 「佐藤仁右衛門」 看板が目を引きます。

 ここの湯守は、代々 佐藤仁右衛門」 襲名していて、現在は、なんと21代目である。

 初代 佐藤仁右衛門は、伊達政宗から 「代々この温泉の湯を守ってくれ」 と言われたそうです。

 真偽のほどは不明ですが。。。。





部屋から見える風景

部屋から見える風景


 左側にあるのが、築100年を越える旧館。

 芥川龍之介が与謝野晶子や菊池寛の勧めで最初に避暑に訪れた温泉がここでした。。。


「8月1日、宮城県青根温泉に避暑。滞在先は不忘閣。28日頃まで滞在。この地で執筆するが体調を崩しペンは進まず、「中央公論」9月分を延期する。」

(「芥川龍之介 年譜」 より)


 芥川にとって、この地での避暑は最悪だったようです。

 山間僻地ゆえの食物の悪さによる便秘に悩まされ、さらに田舎者の湯治客の多さに辟易し、スランプに陥り、ほとんど筆が進まなかったとか。

  そのためか、ここでのことは、ほとんど触れられていません。ただ、『雑筆』 いう、思いついたことなどを書き綴ったものには少し触れられています。

 
 隣室 

「姉さん。これ何?」 「ゼンマイ。」 「ゼンマイ珈琲つてこれから拵へるんでせう。」 「お前さん莫迦ね。ちつと黙つていらつしやいよ。そんな事を云つちや、私がきまり悪くなるぢやないの。あれは玄米珈琲よ。」

 姉は十四五歳。妹は十二歳の由。この姉妹二人ともスケツチ・ブツクを持つて写生に行く。雨降りの日は互に相手の顔を写生するなり。父親は品のある五十恰好の人。この人も画の嗜みありげに見ゆ。

("八月二十二日青根温泉にて" 『雑筆』より)         
   




青根御殿

青根御殿


 敷地内の山の斜面のそびえ建つ木造3階の華麗な建物である。

 火事で消失したが、昭和初期に往時まままの姿で再建され、内部は伊達家関連の文物や訪れた文人達の展示室になっている。

 もちろん鍵がかっているので勝手に入ることはできないが、毎朝、宿泊客を対象にした見学ツアーがあるので、これに参加すれば詳しい説明も聞くことができる。


「碧るりの川の姿す いにしへの奥の太守の 青根の湯舟」

 
 与謝野晶子が、ここで詠んだ句である。





旧館内部

旧館 内部


 レトロだなーー!どこか懐かしい雰囲気を感じさせる。癒されるなー・・・(笑)


 この建物の1階には、展示室兼休憩室があり、コーヒーやお菓子、味噌おでんの無料サービスもあります。

 さらに、なんと嬉しいことに、地元の銘酒 「蔵王」 の一升瓶が冷やされており、無料で銘酒をいただくことができました。

 現在、旧館の部屋は、個室の会食場(食堂)として利用されている。




 → 青根温泉 湯元 不忘閣 HP

 → 日本秘湯を守る会 HP







投稿者: 霧島



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おくのほそ道 東京 両国~深川 散策  2

「行春や鳥啼魚の目は泪」

(『おくのほそ道』 より)



 「是非、奥州塩釜の桜と松島のおぼろ月をみたいものだ。」 と門人たちに話していた芭蕉は、すっかり旅にに魅せられてしまったようで、信州更科の旅を終えたばかりだといのに、もう次の奥州旅行に夢中になっていた。





萬年橋

萬年橋


 小名木川に架かるこの橋は、けっこう古くに架けられた橋で、アーチ式になっていたとのこと。

 葛飾北斎は 『富嶽三十六景 深川万年橋下』 として、浮世絵にしている。





別所、採茶(さいと)庵 跡

別所、採茶(さいと)庵 跡


 「おくのほそ道」 出発前に、芭蕉が身を寄せていたところで、仙台藩ゆかりの仙台堀川沿いにある。

 
 芭蕉庵跡から万年橋を渡り、三菱財閥岩崎弥太郎ゆかりの清澄庭園脇を通り、仙台堀に出た。

 ここからの道は 「芭蕉俳句の散歩道」 として整備されている。





仙台堀川

仙台堀川


 この川沿いに仙台藩の蔵屋敷があったことから、その名が付けられた。

 ちなみに、仙台藩の上屋敷があったのは汐留あたり、江戸屋敷があったのは南麻布で、今は韓国大使館になっている。ここには 「仙台坂」 の地名が残っている。





滝沢馬琴 誕生の地

滝沢馬琴 誕生の地


 深川江戸資料館の近く。ここまで両国駅から歩いても15分くらい。

 ちなみに、両国駅近くには吉良邸跡があり、吉良邸を襲撃した赤穂浪士一行は、隅田川沿いに、芭蕉記念館の脇あたりを通り、万年橋、永代橋を渡って、高輪の泉岳寺に向かったのである。。。。。








投稿者: 霧島


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