決闘前夜 前編 (短編小説)

平成五年に書いた短編です。時代考証はあまり考えずに、好きなように書いた記憶があります。

 
 矢島伝九郎(やじま・でんくろう)は口を一文字に結んで、目を閉じていた。


 滝の側の大岩に端然と座したまま微動だにしない。浅黒い精悍な顔に表情の動きはなかった。寝顔に似た穏やかな無表情を保ち続ける。
 
 数間を隔てて、随行の若い門弟が二人、木の陰で畏まっていた。普段は目を伏せているが、時折、伝九郎に視線を走らせる。深い尊敬の念に満ちた、熱い眼差しだった。
 
 伝九郎は一見、黙想しているように見えて、実はしていない。全ては見せ掛けだった。彼は心中に深刻な苦悩を抱えている。それを門弟に気取られぬため、表情も苦労して作っていた。門弟の尊敬の視線が彼に、取り乱すまいとする意志を絞り出させているのだ・・・









投稿者:クロノイチ


 瞑想に相応しい時間が過ぎるまで、伝九郎は焦燥と懊悩の中でじっと耐えた。そして、頃を見計らってカッと眼を見開く。二人の門弟が一斉に顔を上げた。
「帰ろうか」
 取り澄ました柔和な笑顔で立ち上がる。
「先生っ。明日の試合が待ち遠しいですねっ」
 あどけなさの残る、ふっくらした頬の門弟が、伝九郎の方へ駆け寄り、無邪気な大声を張り上げた。
「そうか。小十郎は待ち遠しいか」
「はいっ。先生の自在流が無想自然流(むそうじねんりゅう)より優れた剣法だというのを、公に知らしめることができるのですから」
 はきはきとした小気味のいい声だ。
 十三歳の小泉小十郎(こいずみ・こじゅうろう)は、伝九郎を崇拝しきっている。しか伝九郎には、もはやそれを微笑ましいものとして受け止めることができない。遠い目をして心を覆い隠すだけで精一杯だった。
「よせ、小十郎。先生は辛い思いをされているのだ。かつての兄弟子と真剣で斬り合わねばならぬのだからな。もう少し、考えて物を言え」
 ひょろりとした背の高い門弟が小十郎をたしなめる。思慮深げで繊細そうな顔の男だ。名前を山村久蔵(やまむら・きゅうぞう)という。
(馬鹿め。そういう問題じゃないんだ。俺は……)
 伝九郎は唐突にすたすたと早足で歩き始めた。苛立ちの抑えきれなくなった顔を、門弟達に見られまいとしたのである。
「待ってくださいよ、先生。私の言葉がお気に障ったのなら、お詫び致しますから」
 小十郎が慌てて小走りでついてきた。久蔵も遅れまいと歩みを早める。伝九郎は強張った表情筋を必死にほぐしながら立ち止まった。無理やり優しげな顔を作って振り向く。
「小十郎よ、心配はいらぬ。私は不動心を体得している。昔の同門と仕合うことに対しては一片の迷いもない。急いだのは、用事を思い出したからだ」
「あ、そうですか。さすがは先生」
 安堵の息と共に、小十郎の顔に明るさが戻る。次の瞬間、もう得意気な笑みを浮かべ、同輩の目を覗き込んでいた。
「どうですか、山村さん。取り越し苦労のようですよ。先生を僕らの常識で測っちゃいけません。先生は想像もできないくらい強くて偉大な方なんだ」
(糞餓鬼がっ)
 伝九郎は小十郎を心底憎らしく思った。
(元はと言えばこいつの浅はかさが……)
 明日行われる真剣試合、それはそもそも小十郎がたった一人で招き寄せた事態だったのである。
「だから、山村さん。私達は先生のことをただ信じていさえすればいいんですよ。明日の試合も楽勝。無想自然流の宗家なんてイチコロですよ。何しろ自在流は、当の無想自然流を土台に、先生が工夫と改良を重ねて完成された、無敵の剣法ですからね」
 小十郎はそう言うと、キラキラと目を輝かせ、師の顔に視線を移した。
(よさんか。貴様がそんなことをあちこちで喋りまくるから、俺が他流の目の敵にされちまう。よりによって、無想自然流の門人相手にいざこざを起こしやがって)
「小十郎。あまり他流派のことを悪く言うものではないぞ。それから、自在流の自慢も程々にしておいた方がいいな。今回のような恨みを買う」
 内心で激しく憤慨しつつ、努めて穏やかに釘を刺す。物事に決して動ぜず、常に毅然と振る舞う中で、他人には常に温和な態度で接する──そんな表向きの顔を今さら放棄することはできない。自在流の道場に人が集まる最大の要因は、実のところ伝九郎の剣技や剣理にはなかった。彼の表面的な人柄が醸し出す不思議な徳にあったのである。
「あ、すみません。わかりました」
 小十郎は大袈裟に頭を下げた。
(嘘つけ。どうせすぐ忘れるんだ。まったく、餓鬼はどうしようもない)
 包み込むような笑顔で伝九郎が大きく頷く。
「では、私は家に戻って用事を済ませよう。道場のことは久蔵と師範代に任せる」
「はい。では、明日また」
 久蔵は静かに一礼した。
(それにしても……・)
 心が異様に重い。門弟達と別れると途端に溜息が出た。吹き渡る山の風が妙に身に凍みる。美しい山の緑も鳥の声も、滅入った心を和ませることはできない。
 伝九郎は一人、沈んだ表情で、屋敷までの長い道のりを歩いた。

 ──夕方。
 屋敷に着くなり、伝九郎は家中の雨戸を閉め、半分闇と化した自室で仰向けに寝転がった。心臓の鼓動が次第に速くなってくる。トタンを打つ雨だれの如き拍動が身体全体で感じられた。手や足の先にまで心臓があるようだ。両手を固く組み合わせ、背筋の内側から湧き上がる冷たい感覚に耐える。
(楯神さん……)
 唐突に昔の兄弟子の顔が頭に浮かんだ。ぼさぼさの長髪に隠れた骨と皮ばかりの顔。薄い唇を横に広げ、にいっと笑う。幽鬼の笑みだった。
 伝九郎にとって、無想自然流四代目宗家・楯神兵庫(たてがみ・ひょうご)は紛れもない強敵である。かつて同じ道場で稽古に励んだ間柄だけに、相手の凄さは身体で知っていた。針金みたいに痩せた肉体をしているくせに、恐ろしく腕力が強く、動きも並外れて鋭い。しかも、天才特有の一瞬の読みと勘で変幻自在に剣を揮う。型に囚われぬ自由な剣でありながら、結果としてそれが理に適っているのだ。
(まさか、仕合うことになろうとは)
 無想自然流からの真剣試合の申し入れは、まさしく晴天の霹靂だった。楯神兵庫は、一旦竹刀を持てば鬼神と化すが、普段は滅法おとなしい。どちらかといえば気が弱く、他人との争いを好まない性格だったのである。
(あの人が、小十郎の戯れ言一つに激昂するとは思えん。血の気の多い弟子どもにせっつかれ、止むなく腰を上げたか。──畜生め)
 既に何度も繰り返してきた思考だった。試合のことを考えるたびに、必ず行き当たってしまう。
「ぬああああああっ!」
 衝動的に動物じみた叫び声を上げた。胸に溜まった重い霧が頭に駆け上って爆発した、そんな感覚がある。
 だが、気は紛れない。追われているからだ。心の底の漠然とした不安に。その実体が何なのか、伝九郎は知っている。知っていて直視することを拒否した。
 すう……ふうううううう……。目を閉じ、呼吸を調整する。大きく吸い、ゆっくりと細く息を吐く。その緩やかなリズムの中で、吸い込まれるように雑念が消えていくはずだった。呼吸に意識を集中することで、他の意識の発生を抑える仕組みである。
 けれども、いつも通りには行かなかった。速い心臓の鼓動と焦燥感のせいで、なかなか意識を集中できない。さらに、それをもどかしく思う気持ちが強い雑念となって、呼吸への没入を妨げる。
(くそっ)
 伝九郎はブンブンと頭を振った。
(何ゆえに、俺ばかりが苦しまねばならんのだ。こんなことなら自在流なんか開くんじゃなかった)
 自在流は、伝九郎が道場に人を呼ぶため、軽い気持ちで創始した流派だ。元々彼は、無想自然流の免許皆伝であり、一度は師範代も任された男だった。
 無想自然流は、この地方でこそ隆盛を誇っているものの、全国的にはほとんど無名である。彼は己の道場を開くに当たり、これからの時代、一刀流や柳生新陰流ならまだしも、無想自然流では安定した経営がおぼつかないと踏んだ。そこで、無想自然流を改良したという触れ込みで、最強を売り物にする流派を手っ取り早く興したのである。
 当然、無想自然流との関係が険悪化するのは覚悟の上だった。とにかく道場の経営を軌道に乗せることを優先したのである。しかし、先方を露骨に刺激しなければ抗争になることはあるまい、と高をくくってもいた。無想自然流を継承した兄弟子の、温和で気弱な性格をよく知っていたからだ。
(そうだ。俺の見込みは当たっていた。逆の意味でな)
 脳裏をよぎる小十郎の顔が、悪魔の笑いを浮かべる。
 仰向けのまま、右の拳と右の踵をドンと畳に打ちつけた。部屋全体が一瞬揺れる。踵の下にフワフワとした弾力を感じた。床板が割れたらしい。
 放心して天井に視線を彷徨わせた。全体が一枚の巨大な黒い板に見える。不意に伝九郎は、板の継ぎ目を見つけたいという衝動に駆られた。必死で目を凝らす。命が賭かってでもいるかのように。
 目は次第に慣れてきた。暗い室内にずっといたくせに、瞳孔は今ようやく機能し始めたみたいだ。
(見えた!)
 達成感が心いっぱいに広がる。歓喜の中、急速に精神が弛緩した。それも束の間、悪寒が走り、猛然と緊張がぶり返す。
(なんでこんなことを喜ぶ?俺はどうしちまった。変だ。変だぞ)
 伝九郎はガバッと上半身を起こし、首を傾げた。
(恐れている……? この俺が何を? 負けて恥を晒すことか? 違う。生きてさえいられれば名誉も道場もいらぬ。──生きてさえ……?)
 突如、自問自答にリミッターが掛かる。
(馬鹿な。俺は自在流の流祖。無敵だ。恐れるものは何もない)
 伝九郎は決然と立ち上がった。安易な気持ちで興した流派とはいえ、見栄やはったりだけでやっていけるものではない。自在流を興して十年。その間の苦心と精進が、無想自然流免許皆伝の剣の腕を、無敵の域にまで高めたという自信がある。そんな彼にとって、今の自分のていたらくは許せたものではなかった。
 右の拳を固く握りしめ、歯をギッと食いしばる。そのまま、右手をブルンブルンと上下左右に力一杯振り回した。心臓の鼓動の音が不思議と気にならなくなる。
 だが、代わって、胃に水銀でも溜まっているような、重い感覚が首を擡げてきた。不安と焦燥は弱まる気配すらない。
 うなだれて、暗闇に立ち尽くす。
「ああ、嫌だなあ」
 溜め息と弱音が同時に口を衝いて出てきた。何が嫌なんだろうと反射的に自問する。無論、明日の試合が嫌なのだ。どうして嫌なのか。伝九郎は、最も単純な答えを無意識のうちに念頭から排除し、別の答えを引っ張り出した。
(まだ人を斬った経験がないからだ。肉を断ち切る感触も知らず、どんなふうに返り血が飛んでくるのかも知らない。他人の命を奪うとどういう気分になるのか、それもわからん。全ては未知。この不安はそこから来ているのだ)
 ふうっと息を吐き出す。納得できる答えが見つかって、伝九郎は少し落ち着きを取り戻した。もっとも、今の不安を敵視せずに済む分だけである。
(この泰平の世に、真剣勝負など無用と思うがなあ)
 無想自然流も自在流も道場では竹刀と防具を採用している。安全かつ存分に打ち合え、実戦の中で技を身につけられるからだ。ゆえに伝九郎には、竹刀以外で試合をした経験がなかった。何ともやるせない思いで部屋を後にする。

 外はまだ夕方だというのに、月夜よりも暗い。空はいつしか不気味な黒雲に覆われていた。さっき閉めた雨戸が、すぐに役立ちそうだ。
 太刀を持ち、庭に出た。小さな松が一本あるのみの狭い庭である。湿りを含んだ冷たい風が、伝九郎の頬を撫でた。鯉口を切っておいてから、するりと剣を抜く。伝九郎の表情に動揺の色が浮かんだ。
(やはり、しっくりせん。竹刀に慣れ過ぎたか)
 剣を上段に構え、気合と共に振り下ろす。鋭く空気を切り裂く感触。これは、竹刀では味わえないものだ。
(だいぶ勝手が違うな。気付いてよかった。明日までにしっかりと手に馴染ませておかなくては)
 早速色々な剣技を試してみた。特に無想自然流の奥義を破るべく編み出した、自在流オリジナルの刀法を。自在流が競争相手の無想自然流より優れていると、人々に印象づける目的で創案した技である。これが役立つ日が来ようとは、伝九郎とて予期しなかったことだった。
 空に閃光が走り、雷鳴が空気を揺るがす。伝九郎は気付かない。いつの間にか眉間に縦皺を寄せ、目を血走らせている。門弟には絶対に見せない姿だった。飛び散った玉の汗が足元を濡らす。己を衝き動かす声のままに、無我夢中で剣を振っていた。
 大粒の雨が地面を激しく叩き始める。大地を抉るような雨だ。たちまち伝九郎は濡れねずみになった。厚手の小袖がたっぷり水を含み、彼の動きを妨げる。その時、再び稲妻が煌いた。さしもの彼も我に帰らずにはいられない。
 伝九郎は落雷を恐れ、家の中に入った。単に剣を振るだけなら、屋内でもできる。試合同様、草鞋を履き土の上でやりたい気持ちはあるが、そんなことにこだわっている場合ではなかった。
 濡れた衣服を素早く着替え、衣桁に放り投げる。引っ掛かったどうか見届けもせず、座敷へと向かった。そこは十八畳敷と広く、天井も高い。剣を振り回すにはちょうどいい部屋である。
(おや)
 台所が明るい。伝九郎は不審に思い、立ち止まった。トトトンと包丁で何かを切り刻む音が聞こえてくる。使用人のいない矢島家で、他に人がいるとすれば、妻の千代(ちよ)以外に考えられなかった。彼の知らぬ間に帰っていたらしい。
「義父上にずっとついていなくていいのか?」
 台所を覗くと、千代が包丁を持ったまま振り向いた。十日ぶりに見るその顔は、幾分やつれた感じだ。目元に疲れが出ている。
「いえ、今日明日が峠で、すぐまた実家に戻らなければなりません。試合の前に、せめて精のつく食事でもと思い、参りました」
 落ち着いた口調だった。表情にも張り詰めたものは見られなかった。意外といえば意外である。彼は真剣試合のことを千代に伝えていない。どこからか聞きつけ、危篤の父を置き去りにして駆けつけたにしては、余りに冷静過ぎた。
「気を遣わせてすまぬな。なあに、こちらのことは心配いらん。安心して義父上の看病を続けるといい」
 訝る気持ちを押し隠し、微笑みを湛えた表情で優しく語り掛ける。
 伝九郎は、いい加減、自分の表向きの顔に嫌気を覚えていた。外ではともかく、家の中でまで仮面を被るのは馬鹿馬鹿しく思える。しかし、千代が愛情を抱いているのは、あくまで表の彼なのだ。二十五歳で自在流を興した彼は、流祖の名に相応しい人格者を十年間ずっと演じ続けてきた。若造と侮られぬためにだ。それ以外の彼を彼女は知らない。連れ添って五年、ここまでくると、もはや自分の意志では演技を止められなくなっていた。
「はい」
 伝九郎の示した思いやりを、千代が何の躊躇もなく受け止める。伝九郎の身を案じている素振りは全く見えない。
「貴方のことは心配していません。料理を作ったら、お言葉に甘えようと思います」
(心配していない?どういうことだ)
 伝九郎は裏切られたような気分を覚えた。千代の真意が何なのか、さっぱり理解できない。働き者で生真面目で一途、それゆえに単純だったはずの彼女が、急に謎めいた存在の如く思われてくる。
「無理はするなよ」
「ええ」
 何も尋ねずに、伝九郎は台所を離れた。お前の心がわからない、とわざわざ本人に知らせる真似はできなかった。表の矢島伝九郎は、いついかなる時も、千代の全てを理解する者として振る舞う。お前のことは何でもお見通し、でなくてはならないのだ。
(気にするな。今は考えている時じゃない)
 戸惑いを捨てきれないまま、座敷へ急ぐ。
 伝九郎は敢えて明かりを灯さなかった。精神を集中するためである。だが、意に反して心は乱れ、剣には気合が乗らなかった。柄を握った瞬間、またしてもあの嫌悪すべき感覚と感情が首を擡げてきたのである。
 胃が重く冷たい。胸には泡が詰まっているようだ。雨戸を叩く雨音がやけに耳に障った。周囲が闇のせいか、聴覚が異常に敏感になっている。
(庭では無我夢中になれたのに……。千代の言葉をまだ引きずっているからか)
 そうではなかった。元々、心を不安や悩みが支配している時は、物事に打ち込もうとしてもなかなか打ち込めないものだ。一心不乱になりたいという思いが却ってその邪魔をしてしまう。庭での伝九郎は、その意味では無心だった。真剣で己の技を試すうちに、自然と没入してしまったのだから。
 結局、伝九郎は満足のいく稽古が全然できなかった。疲労だけが身体に残っている。呼吸は乱れ、手足がズシリと重い。暗い心で自室に戻る。皮肉なことに、今頃になって雨がカラリと止んだ。
 部屋には既に夕餉の膳が置かれていた。とろろ汁に鮎の塩焼、茄子の田楽。手の込んだ物はなく、品目も少ないが、栄養的には申し分ない食事である。十日間、手製の白粥と近所からの差し入れで食い繋いできた伝九郎としては、久々の御馳走だった。
 太刀を置き、膳の前に座る。そこへ千代がやってきた。お櫃を持っている。
「お稽古でしたの?」
「ああ」
 千代は碗に麦飯を盛り、伝九郎に差し出した。
「ありがとう」
 食欲はさっぱり湧かないものの、余計な心配をさせるわけにはいかない。麦飯にとろろ汁をたっぷりかけ、ワシャワシャとかき込んだ。胃が引きつって戻しそうになるのを、必死で堪える。
「うまい」
 そう言って、白い歯を見せた。
「たっぷり食べてくださいね。明日は大事な試合ですから」
「勿論だ」
 鮎の頭をガブリと齧る。苦みの他に何も感じられない。とはいえ、鮎は本来、大の好物だ。うまそうに食べねばならないのが、辛いところである。
「貴方のことは別に心配してません。ただ、一つお願いがあるのです」
(何だと!亭主を心配せんとは、それが女房の言いぐさか!同じことを何度も何度も言いやがって)
 伝九郎は心の中で激怒した。しかし表情は動かさない。ここが我慢のしどころだった。「何だ?」
「できれば、相手を殺さないでいただきたいのですが」
 千代は真顔で言った。
(馬鹿なことを言うな。殺すつもりで仕合わねば、こっちがやられちまう)
「真剣勝負でそれは難しいな」
 苦笑いしつつ、軽く応じる。できるだけ余裕のある喋り方を心掛けた。
「貴方ならできますわ。自在流は最強の剣法と聞いております。どんな相手であっても貴方にとっては格下でしょう。生と死の境を彷徨う父を見ていますと、命の尊さが身に滲みて感じられます。幾ら試合とはいえ、貴方にはそう簡単に人の命を奪っていただきたくないのです」
(そういうことか!)
 先刻からの疑念が一瞬にして氷解した。
(俺が勝つのを当然と思っている。それで心配していない、と言ったのか。わざわざ繰り返したのは、俺への信頼の深さを表現したつもりだったんだ)
 じわじわと嬉しさが込み上げてくる。一度、裏切られたと思っただけに反動は大きい。──が、よく考えてみると、喜んでいられる場合では全然なかった。
(待て! 買いかぶられ過ぎだ。楯神さんを相手に手加減などできるわけがない)
 慌てて次の言葉を探した。体面に傷をつけずに、うまく言い逃れられないかと。
「お前の気持ちはわかる。されど、試合とは、常に全力で闘うべきものだ。手心を加えるのは、相手を侮辱するに等しい」
 キュッと口許を引き締め、重々しい声で伝九郎は答えた。剣の道を進む者としての誠意を込めて。
「全力で闘っていいのです。貴方が全力を出したならば、必ずや相手の命を助ける余裕も生まれましょう。そして、力量差を思い知らされれば、相手も斬られなかったことを、侮辱と思わぬはず」
 千代は伝九郎の目をしっかりと見据えた。怖いほどに真剣な眼差しである。
(食い下がってきやがった。こんなことは初めてだ。畜生、そんなに俺を殺したいか。仕方ない。少し謙虚になろう)
「なるほど。だが、闘わぬ前から相手を見下すのは良くない。相手は、流派の看板を背負っている。並大抵の意気込みではない。普通に闘えば勝てるが、慢心すると負けるやもしれん。殺さずに勝てる、殺さずに勝とう、その気持ちが慢心だ」
「大丈夫です。貴方は何があろうと絶対に勝ちます」
(勝てるものか!)
 思わずわめき散らしそうになった。とっさに飯をかき込むふりをし、歪んだ顔を碗で隠す。不自然な行為だったが、背に腹は代えられない。
(俺の何を知っている? 俺はお前が思っているほど強くないぞ)
 実情を知らぬ千代に熱っぽく勝利を保証されるたび、伝九郎は反発を強めていった。彼女が信じる彼の強さには限界がない。現実の自分の強さは高が知れている。そう。高が知れているのだと、嫌になるほど思い知らされてしまった。慕われ尊敬されることに慣れきった日々の中で敢えて見過ごしてきたもの、それを遂に直視しなくてはならなくなってしまったのだ。己の虚像と実像の間の巨大な落差を。猛烈な嫌悪感が身体を走る。
 今や、千代の顔に小十郎の顔が重なって見えた。
(俺を信じきった顔をしていやがる。愚かな。本当の俺はこの程度だ)
 「この程度」がどの程度なのか、伝九郎本人もまだ深く思いを巡らせてはいない。とにかく今は、この鬱陶しい現状から一刻も早く逃れたかった。
「わかった。できる限りの努力はしよう。それでいいな」
「はい」
 千代が安堵の表情を浮かべる。
(確約したわけでもないのに……。俺が失敗するとは夢にも思っていないな)
 なぜか、ざまあみろ、という気分になった。
「それでは実家へ参ります。後のことはお願いしますね」
「ああ。義父上を頼むぞ」
 千代は慌ただしく部屋を出ていった。最後まで言葉や顔には出さなかったものの、相当に気が急いていたみたいである。
 残された伝九郎は、しばらく放心していた。己が苦労して守ってきたものの一つがあっけなく壊れたのを感じている。もはや自分の強さを絶対視することはできない。ますます高まる心臓の音と共に、恐怖心が膨れ上がっていく。
(俺は無敵とはいえない……)
 何度もその思いを反芻する。最強の剣豪を装い、周囲にもそう信じられて過ごすうち、いつしか客観的に己を見つめる目を曇らせてしまっていたのだ。
 明日の真剣試合の厳しさが、初めて現実の生々しさを伴い、身に迫ってくる。冷汗が背筋を伝って下りた。先刻までと違い、素性のはっきりした不安と恐怖である。
(負けるかもしれん。死ぬかもしれん)
 無敵を自負できなくなった伝九郎は、反動で極端に弱気になった。
(楯神兵庫。同じ道場にいた頃は、俺よりも一枚上手だった。今は俺自身に、無想自然流の奥義を破る極意がある。──が、果たしてそれだけで、あの実力差をひっくり返せているか……)
 考えれば考えるほど怖さは募っていく。相手の今の実力がわからないのが、何よりも不気味だった。
 振り返れば、真剣試合が決まって以来、ずっと同じ不安に苦しめられていたのである。もっとも今までは、過剰な自信に抑圧されて、明確に意識しないままにきた。つまり、この弱気な伝九郎こそが、彼の本性に他ならない。
 何もかも捨てて出奔しようか。──そんな思いが頭を掠めた。たとえ腰抜けの烙印を押されようが、死ぬよりはましだとも思う。
(血迷うな。剣に生きる者として、けじめはつけねばならん。要は勝てばいいのだ。勝てば。死ぬ気でやればきっと勝てる)
 心で何度も繰り返す。自分をなかなか納得させられないのが情けなかった。
(寝よう。試合は日の出の刻だ。しっかり休んでおかねば)
 伝九郎は睡眠に逃避することを思いついた。すぐさま部屋を片付け、寝る準備をする。ふと、最悪の事態のために遺言を書いておかねば、と思った。縁起でもないことだが、それが流祖の務めである。ただ、今は気力が湧かなかった。
(明日だ、明日。気の滅入ることはみんな明日に回そう)
 さっと布団に潜り込んで目を閉じる。
 無論、まだ宵の口。まして今は、異常なくらい気が高ぶっている。眠気は全然ない。仰向けに寝ていたのが横向きになり、うつ伏せになって、また仰向けになる。足の曲げ方や腕の位置もあれこれ変えてみた。それでも一向に寝つけない。
 突然、妙に呼吸音が気になり出した。意識して静かに息をしてみる。いっぺんに呼吸がぎこちなくなってしまった。違和感がしばらく残る。
 眠らなければと思うたび、伝九郎の神経は際限なく過敏になっていった。しまいには、布団の肌触りすら不快に感じるほどになる。酒を飲んで一気に寝られる奴が羨ましいと心から思った。彼は一滴も飲めないのだ。そういえば、相手の方は少し飲める。二合飲むのがやっとといったところではあるものの、彼と比べたら遙かに酒には強い。
(いいな、楯神さんは。あの人も普段は気が弱くて緊張症なんだが……。やっぱり、軽く一杯引っ掛けて、ぐっすり眠るんだろうな)
 思うように眠れない自分が、どうにももどかしかった。
(待てよ。眠ろう眠ろうと焦るから、眠れないんだ。ひとまず何か別のことを考えて、気を紛らわせよう)
 心に言い聞かせるようにして、意識を切り換える。取り敢えず、頭の中で、明日の試合のシミュレーションをすることにした。ほんの気休めである。前もって戦法を考えておいたところで、実戦がその通りに行くわけもない。とはいえ、万に一つでも山が当たれば、という淡い期待を抱きたい気分ではあった。
(俺がこう打ち込むと、あの人は受け流して小手狙いにくるはずだ。そしたらこっちは素早く左前に跳んで、振り向き様に疾風剣を放つ。これで決められるか? いや、あれは元来が無想自然流の技。外される恐れは充分にある。そうなれば、即座に負けだ。疾風剣はかわされた後の防御に難があるからな。──では、小手打ちを外した後、止水の型からの暗行剣を使えば?あれは自在流独自の技。その上、攻撃動作がそのまま飛燕剣と月影の防御にもなる。うまいぞ)
 ちなみに飛燕剣と月影は、無想自然流の奥義の名称である。どちらも小手狙いからの連続技だ。
(いや待て)
 伝九郎はなかなか満足しなかった。
(──楯神さんの得意技は低姿勢からの霞斬りだ。もし、かち合えば、暗行剣はあの人のちょうど頭上の空間を斬ることになる。相打ちにもならん)
 結局、何度戦法を考え直しても、しまいには必ず負けてしまった。自分の動きに対し、相手が常に理想的な対処法でくると、勝手に想定しているためだ。どんな状況にも直ちに的確な対応ができる相手になど、勝てる道理がない。
 とうとう伝九郎はいたたまれなくなり、考えるのを止めた。否、止めようと努力した。けれども、その心とは裏腹に、不安を増長させることばかり考えてしまう。気休めのつもりが、逆の結果を生んでしまった。
 上半身を起こして、重い息を吐く。
(駄目だな)
 このまま永遠に眠れないような気がしてならない。
 心細さが胸を締めつけた。枕を抱きながら、掛布団を頭まで被る。横向きになり、膝をぎゅっと折り畳んだ。赤子のように。

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