特大家族 第二章 リセットスイッチ その16 (小説)

六月十五日(土)

 
 この日、楓は普段よりずっと早く目を覚ました。午前五時。既に日は昇り始めている。


 外はまだ静かで、遠くでキジバトの鳴き声がする程度だ。窓から差し込む柔らかな日差しを浴びて、楓は大きく背伸びをした。

「ああ、気持ちいい」

 思わずそんな声が漏れてしまう。












投稿者:クロノイチ


 スマートフォンをチェックし、今日の天候を確認した。「日中は晴れ、降水確率ゼロパーセント」 と出ている。楓の心配事が一つ減った。

 昨夜も覇斗と指相撲の練習をみっちりとやった。右手に覇斗の手の感触が今もなお残っている。クール・リーディングを完全にマスターしてやっと教えてもらえたクール・サムライディングは、指相撲の常識を覆す驚天動地の大技だった。難易度は過去に教わったどの技よりも高い。自分のものとするには相当な練習を積む必要がありそうである。

 覇斗から指定された出発の時刻は午前七時。日差しが柔らかく、山が明る過ぎない時間帯の方が、くっきりといい具合に見えるのだという。何がくっきり見えるのかは、まだ教えてもらっていない。場所を訊いてみると、本当に自転車で楽々行けるところだった。比較的大きな道が通っていて、楓も家族の自動車に乗って何度となく通り過ぎている。問題は、その場所から見える風景がどんなものなのか、全く思い出せないということだった。車を降りてまじまじと景色を眺めたことこそまだないけれども、実際に何回も見ていながらこれっぽっちも印象が残っていないのは妙である。楓はがっかり確率が九十五パーセントまで跳ね上がったのを感じていた。

(一応、どんな景色でも褒めてあげないとね。でも、あたし、嘘はホント苦手だからなあ。せめてがっかりした様子だけは見せないようにしよう。大丈夫。最初から期待してなきゃいいんだから)

 楓は出発する前から既に結果が見えた気になっていた。しかし、それでも心は躍っている。まず、覇斗と二人で出かけられることが純粋に嬉しい。家族とピクニックに行くのとは別の高揚感がある。また、覇斗という人物をより深く知る絶好の機会だという思いも強くあった。どのような景色であれ、なぜその景色が覇斗に強烈な影響を与えているのかがわかれば、彼の精神構造の一端が理解できそうな気がする。それが今から楽しみでならない。

 楓にとって覇斗は、今や気になって気になって仕方がない存在だったのである。

 朝食後、覇斗と楓は家の裏手の自転車専用ガレージで一旦落ち合うと、時間をずらして別々に出発した。自転車通学の覇斗は愛用のクロスバイクに乗り、バス通学の楓は家族共用の電動シティサイクルに乗る。道すがら合流する予定だった。

 一応、他の家族に出くわした時の言い訳として、気晴らしのサイクリングの道順が偶然同じになったという設定を用意してある。一緒に出かけても別にやましいことはないのだが、面倒はなるべく避けたい── これが覇斗と楓の共通意見だった。楓の両親や七瀬美晴子辺りに見つかると、うっとうしい事態になるのは間違いないからだ。というわけで、二人の服装は、お洒落とは無縁の着古した普段着である。デートでないのなら、それが自然といえた。ただ、まるっきり普段通りというわけでもなく、楓は長い髪をシュシュで無造作にまとめて活動的な感じになっているし、覇斗は覇斗でスタイリッシュなスポーツサングラスを掛けて精悍な雰囲気を醸し出している。

 歩道のない州道を一キロほど駆け下りたところで、覇斗は先行する楓に追いついた。横に並んで走りたかったが、道交法違反なので人目がなくても敢えてやらない。二人とも基本的なところで真面目人間なのである。

「ホント、なんにもない道よね」

 楓は話題に事欠いて思わずそう言っていた。

「田んぼや畑がたくさんあるじゃないか。山も見えるし」

「そういうのを 『何もない』 っていうのよ」

「じゃあ、何があれば、『ある』 ってことになるんだい?」

「贅沢は言わないわ。印象深いものがあればなんでもいいんだけど」

「あるよ」

「どこに?」

「ここ」

「え?」

 楓の目には見渡す限り「何もない」ように見えた。屋敷林に囲まれた大きな民家が何軒か点在しているものの、この地方ではそう珍しい情景ではない。

 ── とはいえ、今から行くところと比べるとだいぶ、見劣りしてる。だから、説明するのはもう少し待ってよ」

「気を持たせるわね」

 縦一列で大声で会話を交わしながら、二人は風を切って目的地を目指した。途中で一回右折してひたすら直進すると、段々と道路が緩やかな上りに変わってくる。時折、急な勾配もあるが、基本的にごくありふれた田舎道だった。真っ直ぐに伸びた道の先には、こんもりと緑の木々に覆われた低山が幾つも重なって並んでいる。道路は山の麓まで来ると大きくゆったりとカーブし、隣の市に続く別の大きな道に合流していた。ただ、今回は、そこまで行く必要はない。カーブのだいぶ手前が終点である。

 間もなくして、二人は自転車から降りた。覇斗がサングラスを外し、何やら満足げに頷く。楓は、覇斗の勧めに従って左側の路肩ギリギリの位置に立った。やはり楓の目に目ぼしいものは映らない。困った顔の楓と、悪戯っぽい笑顔の覇斗── 二人の表情が対照的である。

「── で、ここですか」

「うん」

「覇斗君がやけにプッシュするから、どんな素晴らしいところかと思ってましたが、ここですか」

「うん」

 普段は飾らない口調の楓が敢えて丁寧語を使う時には、何か含みのあることが多い。

「ここなら何回も通ったことがあるわ」

「立ち止まったことは?」

「ううん。車だったから」

「だったら、よく見ておくといいよ」

「どこをよ」

「ほら、綺麗だろ」

「確かにキレイな景色よ。山の稜線もキレイだし、道路の舗装やラインも新しくてキレイだし、道の横に果てしなく広がってる田んぼも、鮮やかな緑でキレイだわ。そう、うまく言えないけど全体的にキレイな感じ。ここから眺めると凄く構図がいいわね。よくある山の裾野の田園風景なのに、絵ハガキになりそうなくらい爽やかな景色に見えるわ。ただでさえ少ない家がみんな道路から外れた場所に立ってるから、視線を遮るものがほとんどないっていうのもポイント高いと思う。── でもね、何十分も自転車漕いでやって来た身としては『それだけなの?』って感じがしないでも…… あ、言っちゃった」

 楓は、つい言い過ぎそうになる自分をなんとか抑えようとしたが、最後の最後で失敗した。褒めてあげようと思ってたのに、と後悔しても既に遅い。しかし、覇斗は顔色を一切変えなかった。悪戯っぽい笑顔のまま、楓の目をじっと見る。


「視線を遮るものがないって?」

「うん。それがどうかしたの?」

「しっかり見るんだ。僕らが自然の景色を見る時には、ありきたりの人工物は、基本的に意識の外へと追いやられてしまう。視界には入っているのに見えていない状態になるんだ。さすがに道路だけは、僕らが立っている場所だから無視できないけどね」

「人工物? 道路の他に? ああ、そういえば電柱が道の右側にうじゃうじゃ立ってるわね。でも、なんの変哲もないただの電柱よ」

「じゃあ、少し顔を上げて、なるべく遠くにある電柱の上の方にピントを合わせて、もう一回風景を見直してごらん」

「電柱に? なんでそんな……」

 不承不承ながら別に手間が掛かるわけでもないので、楓は取り敢えず言われた通りにしてみた。

「え!」

 あっさりと世界が変わった。漫然と自然を眺めていた時と、全く別の景色が広がっている。楓は心のどこか深い場所に静かな衝撃を受けたのを感じていた。

「どう?」

「一本一本の電柱が空を突き刺しながら連なって、メチャクチャ高くて長いスリット入りの壁みたいになってる。そいつが道路と一緒
にずっと彼方まで伸びて、そこからグルッとカーブを描いて、ちょうど山の袂をを抉ってるように見えるわ」

 客観的に見れば、どこにでもある規格品のコンクリートの柱が、ひたすら延々と間隔を開けて並んでいるだけに過ぎない。だが、一度、電柱を視界の中心に据えて景色を見直せば、それらはたちまちにして全長数キロに渡る美しく壮大な構造物と化した。緩やかに上る坂道の右側に立ち並ぶライトグレーの数十本の電柱が道路に沿って遠近法の見本のような姿でそびえ立ち、青い空、遠景の山の濃い緑、近景の田畑の明るい緑の中に「くっきりと」浮かび上がる。東の空から差し込む日差しが電柱の左半分を白く照らし、一本一本の電柱の中にも陰影を作り出して、全体の美しさを際立たせていた。

 覇斗は静かに楓の次の言葉を待つ。覇斗が幾ら景色の素晴らしさを力説したところで、「所詮は電柱」と楓が思ってしまえばそれまでだ。

「びっくりした。凄い景色。こんなの見たことも、ううん、気が付いたこともなかったわ。『狐につままれたよう』って今みたいな時に使うのかな?」

 楓がどこか興奮した様子を見せると、覇斗は嬉しそうに微笑んだ。

「ああ、僕も初めて見た時はそんな感覚だった。唖然として声も出なかったよ。もっとも、その時はちょうどここに引っ越してきたばかりの頃で、辺り一面銀世界だったけどね」

「へえ、どんな感じだったんだろ」

「路面が凍っていない曇りの日にね、自転車であちこち探索してたんだ。ここに来たのはたまたまさ。あの時はいきなりだった。ありふれた雪景色が一瞬で変貌を遂げたんだ。灰色の空と白い山と大地、アスファルトと濡れて黒ずんだ電柱が作る陰影の世界── 水墨画の情景が突然目に飛び込んできた。美しいという感想よりもまずガツンという衝撃が先に来たよ」

「自力でよく気付けたわね」

「運が良かったんだ。目の前をカラスっぽい姿の白い鳥が横切ってね、珍しいと思ってそいつを目で追っていたら、飛びに飛んで遥か遠くの電線に止まった。── そしたら、さ」

 覇斗は遠い目をしながらそう言った。微かに悔しげな表情を浮かべながら。楓はなぜだろうと思いつつ、覇斗の言った情景を想像し、そのイメージに圧倒された。

「それって、インパクト抜群じゃない」

「まあね。だけど、そんなエピソードがなくたって、この景色、充分インパクトはあるだろ?」

「認めるわ。今ならあんたの言ってたことが、なんとなくわかる気がする」

「僕が言ってたこと?」

 覇斗は思案顔で電柱群と楓の顔を交互に見た。

「うん。自分の視野が狭くなった時、ここに来て原点に還るんだって言ってたでしょ。ここは視点を少し変えるだけで、目に映る景色が激変する世界。物事をいろんな角度から見ることの大切さと素晴らしさを思い出させてくれるわ」

「そうだね。僕にとって大事なのはまさにそこさ。ここの景色は確かに素晴らしいけど、ナイアガラの滝や富士山に匹敵するくらい美しいわけじゃない。四月の小矢部川沿いの桜並木にも及ばないだろう。それでも、僕はここがいい。ここに来るたびに、自分を追い立てていたものから解放され、生まれ変わったような気分になれる。この美しい景観を構成しているのが、景観を損ねる物の代名詞である電柱だからだ。人の目に触れないよう地中化が押し進められるほど嫌われ、景色を見る際には邪魔な物として無意識のうちに視野から消されてしまう──そいつが作り出す美しさだからこそ、僕の心に響く。視点の変化が物の価値観さえ反転させてしまうってことを、この目で実感できて嬉しくなってくるんだ」

「ホント、突拍子もない発想力ね。景色を見て衝撃を受けたからといって、普通、そこまで飛躍した発想は出てこないわよ。あたしだって、あんたから前もって色々聞いてたから理解できるだけで、じゃなかったら、ふーん、って能面のような顔で右から左に聞き流してる」

「言っただろ。運が良かったって。僕なんて全然大したもんじゃない。何せ『自分は諦めが良過ぎる』って自覚した後、あれこれ考えに考え、迷いに迷って最終的に行き着いた先が、大声絶叫大会やら四つ葉探し大会やら指相撲大会やらだ。言ってて恥ずかしくなるくらいの視野狭窄ぶりだよ」

 覇斗がまたしても悔しげな表情を見せる。どうやら運に助けられたというところが気に入らないらしい、と楓ははたと思いついた。

 覇斗は極端な努力家である。煌めくような才能の持ち主であると同時に、全方向に際限なく努力を続ける自己鍛練の虫でもあった。そうでなければ、去年の指相撲の大会で、楓が覇斗に負ける道理がない。幾ら優れた技の原理を思いついたとしても、それだけで指相撲一筋にひたすら頑張ってきた楓を簡単に凌駕できるなんてことが、あるはずはないのだ。本人は自分の努力を事も無げに語っていたが、きっと血の滲むような修練を積み重ねたに違いなかった。そんな覇斗ならば、あらゆることを独力でやり遂げたいという欲求を持っていたとしても、なんの不思議もない。

(また一つ)

楓は覇斗の個性に触れることができたと思い、口元を綻ばせた。そして、

「そうね。そこはちょっと極端かも」

と、現在進行形で指相撲にのめり込んでいる自分を棚に上げ、したり顔で会話を繋げる。

 覇斗が 「だよな」 と言いつつ、気恥ずかしそうに頰を掻いた。


続く

関連記事




人気ブログランキングへ にほんブログ村 その他趣味ブログ 多趣味へ ←クリック投票に協力して下さいませっ!

[ 2016/07/10 23:00 ] Menu:16 Anthony's CAFE 文化部 | TB(0) | CM(0)

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する



トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://anthony3b.blog108.fc2.com/tb.php/6001-99b4f948